ダメなオタクのダメな生き方

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ミュージカル「刀剣乱舞」~つはものどもがゆめのあと~

長いようであっという間だった、刀ミュの秋の公演がやっと終わった。

今回は過去の公演と比較しても公演数が少なかったはずなのに、この3ヶ月間本当に長く感じた。正直、早く終わって欲しかった。私が見れない日もtwitterにはキャストがキラキラと眩しい写メを上げてくれるので、TLを見る度その日劇場に行ける観客たちが羨ましかった。羨ましくて羨ましくて、どうすれば私が劇場に行けるのか、彼らの闘う姿を見れるのか考えた。分かっているけど、分かっているから、調べてはブラウザを閉じてを繰り返していた。嫌になってしまい、推しのツイートにリプやいいねを付けない日もあった。そんなしょーもない事を繰り返した3ヶ月、他人から見たらしょーもない3ヶ月だけど、いろいろな新しい世界を知ったし楽しい事もあったので良しとする。

 

 

個人の意見ではあるが、私はこれまでの刀ミュ史の中でつはもの公演が一番好きだ。

私は、刀剣乱舞というコンテンツのテンプレでもある「元の主(歴史)のために歴史改変へ心が揺れ動く」というストーリーに飽きていた。トライアルや阿津賀志山の時に感じた感動も、その後のメディアミックスで繰り返される事により食傷気味になっていたのだ。それは私だけでは無かったと思う。

そんな中、刀剣乱舞というコンテンツが今後何処を目指していくのか、その道筋を形として示してくれたのが「つはものどもがゆめのあと」である。その試みは「三百年の子守唄」の時からはじまっていた。完全に私個人の意見だけれど、みほとせは作り手側もファンもある種生みの苦しみだったのではないだろうか。次のステップへの葛藤の時期というか、どうすれば刀ミュを長期コンテンツへと展開していけるのかファンも不安を抱えていたと思う。演出の茅野さんがパンフレット冒頭でも述べているが、つはもの公演はターニングポイントとして確かに結果を残したと思う。

 

物語は、歴史とは何なのか、刀剣男子たちが自身の存在の不安定さに気付き、悩み葛藤しながら進んでいく。

上手いなと思ったのは、源義経を歴史上の人物としてではなく義経伝説に寄せて描いたところだ。歴史として語り継がれてはいるが、その最期については正確さに欠ける。昔、世界史の授業で、チンギス・ハンが義経だったら面白いよねと先生が話していたのを覚えている。どちらへ向かうのですか、という今剣の問いに義経は、北へ向かいさらにその先の大陸まで逃げてやると答える。義経はこの歴史の中では伝説の存在になったのだ。

義経や弁慶が伝説となったように、今剣や岩融もまた義経伝説における刀剣、薙刀である。そしてそれは様々な伝承をもつ髭切もまた、実存しているが正確さに欠ける存在である事を示している。千年以上刀やってるとたいていの事はどうでもよくなった、と髭切は笑うが、膝丸は箱根権現へ奉納の様子を見に行くのを断っており、実に人間味溢れるキャラクターとして描かれている。小狐丸に関しては、元々自身で小鍛冶について触れているため言わずもがな。歴史の中でかたちが残ったものとして、確かな存在として描かれるのは三日月宗近だけである。三日月宗近は、歴史とは流れる水のようなものと話す。千年も前の事など誰も証明できはしないさ、と。誰にも正確なところは証明できないからこそ、歴史上の伝承や逸話、物語を刀剣男子たちの存在に結びつけた。

そもそも刀剣乱舞の世界では、妖怪やら鬼やら幽霊やらを斬ったと伝承される刀剣たちが複数登場する。焼失したものもいる。出自がはっきりしており、なお且つ現存している刀剣は限られている。今剣に関してはゲーム内でもその在り方について触れられていたが、ミュージカルの世界線では伝承も含めて刀剣を取り巻くもの=彼らの中の記憶となるようだ。彼らの中で生きている形のないもの、それもまた歴史のひとつである。

 

大千秋楽が終わったので、私の一番好きなシーンについて語らせて欲しい。大千秋楽が終わったタイミングで他の人たちも堰を切ったように呟きだしたので、今更ではあるのだが。

三日月宗近藤原泰衡に正しい歴史について話したシーン。泰衡は最後に、我が骸と会うことがあれば蓮の花を供えてくれないかと三日月宗近に頼む。約束は守ろう、と答える三日月宗近。後に、泰衡の首桶の中からは調査の際に100個あまりの蓮の種がみつかっている。この種は2000年に開花して、今でも中尊寺蓮として存在し、年に数日ほど開花するそうだ。もしかしたら三日月宗近が約束を守るよう差し向けたのではないか…。そんな都合の良い空想をするくらいは許してもらえないだろうか。

三日月宗近が蓮の花を持って舞うシーンは本当に美しかった。あの歌は三日月宗近から泰衡や頼朝(髭切から三日月が感情移入してしまうと言われた、歴史として形の残ったものたち)に向けて歌われていたのだろう。三日月宗近はどこか孤独な存在である。刀である彼はいつも見送る側で、共に長い時を過ごしてくれた人間はいなかったのだから。だからこそ、汚れ仕事は俺一人ですれば良いと自分の在り方を決めているし、小狐丸と対峙しても自分の意思を曲げなかった。今思えば刀ミュでの三日月宗近というキャラクターの方向性は、当初から固まっていたのだと思う。三日月宗近の孤独は、小狐丸ら三条のものたち、そして源氏の二振りがそれとなく埋めてくれると信じている。

 

今回は義経の熱演に何度も泣かされてしまった。荒木さん演じる義経は本当に美しく、強く、優しさに溢れていた。勧進帳のシーンでは、田中さん演じる弁慶との師弟愛に何度見ても泣いてしまう。この方は本当にボロボロに傷ついた義経が似合うなと思ってしまった。戦って傷つき、精神的にも追い詰められているはずなのに、瞳が最期まで本当にキラキラしていて、自害しようとしているのに瞳の中に力強さとか生命エネルギーみたいなものが消えていない。戦場のカリスマとしての義経を本当に演じきって下さった。また阿津賀志山で義経と会えるのかと思うと本当に嬉しい。

 

そして北園さん演じる小狐丸の成長に感激したのは私だけではないだろう。今回1部2部併せてソロが3曲もあり、なかでも『あどうつ聲』は開演初っ端。らぶフェスでもお披露目されたが、あの時ソロを歌ったのは蜻蛉切と二人だけである。いたる所で褒められまくっていたが、小狐丸の存在感はとても大きかった。もっと大きくなって帰ってきます、と挨拶して下さった事がとっても嬉しかった。

麻璃央君演じる三日月宗近もビックリするほど歌も演技も上手くなって帰ってきてくれた。麻璃央君ファンの方がテニスの時みたいだって話していたが、時間を空けて再演した時必ず成長して帰ってきてくれる役者さんみたいだ。私は三日月宗近役で初めて彼を知ったけれど、本当に頼もしく感じた。正直な話、私は以前から鈴木拡樹さんが好きなので、別作品とは言え、あの拡樹くんと同じ役を演じるのは酷じゃないかと思っていた。どうしても両者の三日月宗近を比べてしまうし、阿津賀志山の時は台詞の抑揚の癖の強さが気になって集中できないシーンもあった。でも今は違う。どこか影や孤独さを感じさせる、美しい三日月宗近を演じきってくれた。彼はカーテンコールでもキャラクターを崩さず、ファンに約束するときも言葉に非常に気を使ってくれる。麻璃央君の三日月宗近が約束してくれると、本当にまた会えると確信できるのは不思議だ。

 

本当に夢をみていたような素敵な時間だった。私は、またこの6人に会えると信じている。

そして阿津賀志山のみんな、おかえりなさい。約束を守ってくれて本当にありがとう。

 

 

しかし夏はスタミュミュに通わなくてはいけないので、パリまで追いかけていけないのであった。ごめんね刀ミュくん!東京で見ます。

推しのパリ行きが決まっていたら、今頃混乱していたと思う…今は正直ほっとしている。