ダメなオタクのダメな生き方

言いたい事だけ書きます

『八王子ゾンビーズ』についての散文

『八王子ゾンビーズ』が、明日で千秋楽を迎える。批判的な感想が多く見受けられたこの舞台であるが、千秋楽前に書いておきたいことがある。
前置きとして、私も「八王子ゾンビーズって最高に楽しいけど、つまんないよね。」と言っているオタクの一人だ。
だけど、私の思っている「つまんない」理由は、SNSで語られる理由とは少し意味が違うかもしれない。多くの人が「つまらない」という一言でまとめてしまっているので、私と同じ考えの人がどれくらい存在するのか分からない。「つまらない」って言葉は扱いが難しい。

私は、『八王子ゾンビーズ』は社会風刺色が強いと思っている。
鈴木おさむが、どの程度狙っているのか本当の所は分からないが。まあ、一人のオタクの勝手な妄想だと思って欲しい。


そもそも『八王子ゾンビーズ』の主人公であり、語り部でもある羽吹は、劇中すべての出来事を過去形で語っている。導入部から終始、羽吹の語りで物語は回想、転換される。観客は羽吹と共に出来事を追体験したり、感情移入したりする必要は無い。物語は全て、家でボーっとテレビを見ているかのように、観客はただただ消費していく。羽吹が一人で喋り続ける姿を見て、ゲラゲラ笑って、あんなニュースあったなとか最近あの芸人見ないなとか海鮮食べたいなとか、そんな事をボーっと考える。実にテレビ的な手法である。
そんな羽吹が、自分探しの為に辿りついたのが「希望寺」である。この希望寺の住職の名前が「こうめい」であり、紫色の袈裟を着て登場する。紫という色は宗教において実に重要な意味を持つ。キリスト教然り、仏教然り。私はあくまで宗教を学問や文化として楽しむ人間なので、造詣が深くなくて申し訳ないのだが、多くの宗教で紫という色は神聖な扱いを受けており、確かイエスも侮辱の意味を込めて紫の外衣を着せられていた。そんな孔明は、自分の正義を信じて行動する。孔明というキャラクターは、自分の信じる正義と羽吹の信じる正義は違うと言う。彼は最後まで自身の考えを曲げようとはしなかったし、これからも変わらないという。孔明というキャラクター自体が、現代におけるカルト宗教を表現しているのだ。私たちが普段消費していく沢山のニュースの中に、たまに紛れ込んでいる宗教法人のニュースを見るのと同じように、観客は孔明の正義の良し悪しを考える。ある日の劇場からの帰り道で、私の前を歩く女性達が「孔明の言ってることも分かるんだよねー。」と話していた。その姿を見て、私は職場や学校でニュースの出来事を見てあれこれ議論する人々と同じ構図だな、と思った。おそらく、鈴木おさむの狙いとしてはコレが正しいのだと思う。
鈴木おさむはテレビの人間だ。舞台作品を演出するならば、自然とテレビ的な手法に行き着くと思う。個人的には、面白いことやりますよ、新しい取り組みをしますよと謳っていたのは、応援上演よりもコチラの方だったんではないかと思う。応援上演は映画館で流行っているから取り入れたと言っていたが、正直、観客を「八王子ゾンビーズ」の世界やキャラクターに感情移入させないようにする仕掛けの一つではないだろうか。だって、真面目に観客を良い話で泣かせたいならば、わざわざ集中力が途切れるようなタンバリンや手拍子なんてさせるか?お茶の間で、テレビを見ながら笑って手を叩いたり、親がドラマやニュースの感想を喋ってる横で「はい、はい」って聞いている、あの感覚を劇場で擬似的に作ろうとしているとしか思えない。
個人的に面白いなと思ったのは、物語のキーマンの一人でもある楓の描き方だ。「楓が、何故母親に産んでくれてありがとうと言うのか、意味が分からない。」というような感想を複数目にした。なるほど、と思った。
私は楓と大池市長の関係を、典型的な「毒親」と「アダルトチルドレン」だと考えている。というのも、私自身がアダルトチルドレンであり、毒親育ちである。未だにこの親子関係について誤解している人も多いが、最近は社会問題の一つとして以前よりも市民権を得た気がする。大池市長は、自分の夢や、こうありたかった理想の姿を息子の楓に求めている。思春期に子供が反抗期を迎えない場合、一部の親は精神的に子離れできず、母親の場合は特に臍の緒で繋がっていた我が子との乖離が難しいようである。大池市長の行動の根底には愛情があったと思う。しかし彼女は、楓を自分の体の一部であり、まったくの別人格を持った一人の人間であると考えられなかったのだと思う。「私は親だから、子供の考えていることは分かる。」という親がいるが、正にあんな感じだろう。楓はおそらく、多忙で家庭を顧みない両親に対して、早く精神的に成熟しなければいけないと考え、親の前では良い子を演じていたのだろう。楓が亡くなるまで、大池市長は楓の素行が荒れていたのを把握していなかったようだし。大池家は典型的な機能不全家族だったことが予想される。アダルトチルドレンの親に対する感情は、ざっくり分けて生理的嫌悪を抱いているか、いないかの二種類だと思う。楓の場合は後者である。毒親の行動原理が子供への愛情だと理解している場合、その行動を怨んではいるが、愛してくれているという事実に対して嫌悪感は無いと答えても不思議ではない。作中で描かれる楓は、優しく聡明な男の子である。自分の母が、歪んだ表現とはいえ自分を愛していること、歪んだ親の愛情に応えなければいけないことに葛藤していなのではないだろうか。本当の仲間だと思った八王子ゾンビーズたちに、助けを求められなかったのも、楓の心根の優しさと、それゆえの弱さを物語っている。私は楓の気持ちが痛いほど分かる。私も心から信頼している友人達がいるが、物心ついた時から現在まで、おおっぴらに自分の家庭環境について話したり相談したことはない。自分の家庭問題で相手を煩わせたくないからであり、信頼していないからではない。おそらく、大池楓もそんな風な理由で、限界を迎えるまで八王子ゾンビーズ達に頼らなかったのだと思う。
さて、もしも鈴木おさむアダルトチルドレンの風刺として楓というキャラクターを作ったのならば、観客が「何故、楓は母親に感謝したのか。」と疑問に思うのは仕掛けとして成功していると思う。アダルトチルドレンの思考について、理解して欲しいのではない。私も、機能不全家族で育っていない人に、アダルトチルドレンの気持ちを分かって欲しいとは思わない。社会問題として存在するということ、それだけ知ってくれれば十分なのだ。

「八王子ゾンビーズ」という舞台は、観客がボケーっとしながらテレビを見ているかのような感覚で、目の前で流れていく出来事を消費していく。家でニュースを見ているのと同じ。気になったニュースはググって、ふーん、これこれこうだからニュースに取り上げられたのか。こんな条例があるんだなあ。こんな会社があるんだ。とか、気になったワードを調べて詳しくなって、でも時間が経ったら風化していって。そういった、多くの人が当たり前にしている行動を、劇場という環境に置き換えている。もし私の妄想通りならば、鈴木おさむが社会風刺として一番訴えたいのは、日々テレビ番組をボケーっと見て消費し続ける私たち=観客の在り方についてではないだろうか。「俺たち、こんなに汗水垂らして面白いもの作ろうとしてるのに、何で伝わんないんだよ!」みたいな。流行というと聞こえはいいけれど、近年、特に消費社会化してきていると思う。私もそうだが、みんな飽きっぽいのだ。

では何故、私はこの作品をつまらないと思っているのか。それは、社会風刺としての仕掛けが、圧倒的に観客の偏差値と合っていないのである。
そもそも、アーティストや若手俳優のファン層のうち、どれ程の人が社会問題に興味を持っているのだろうか。偏見かもしれないが、たぶん、皆あんまり興味ないと思う。昔、某大手広告会社の人の講義を受けたことがあるのだが、テレビ番組にも偏差値のようなものがあると言っていた。マーケティングでいうなら、市場のセグメンテーションとターゲティングというやつだ。客層に合わせて商品展開をする、という意味で失敗している。なぜなら、観客のほとんどが、社会風刺色の強い作品だと気付いていないのだから。ただし、これは商業演劇の場合である。鈴木おさむが今回やろうとしたのは、エンタメ性を強く出しながらも、演劇本来の芸術志向性の高いものである。演劇の場合、芸術志向性の高さとは、「実力派の役者!」とか「骨太な脚本!」を売りにする事では無いと私は考えている。準備された脚本をどう味付けするか、つまり演出である。「八王子ゾンビーズ」はエンタメの皮を被っているが、その中身はかなり攻撃的だと思う。何でもありの小劇場ならば、脚本のみで言えば上手くハマったのだと思う。ネルケが、今後の2.5次元をただの消費されていくエンタメにしない為に今回の企画を打ち出したのならば、「八王子ゾンビーズ」はかなり試験的な作りになっているのではないだろうか。
まあ、全部オタクの妄想なんですけどね。



そんな八王子ゾンビーズも明日で千秋楽である。このブログを読んだ人が、観劇中にふと別視点で物語を楽しんでもらえれば私は満足だ。
私は今年の夏を八王子ゾンビーズ達と過ごせて最高に楽しかった。
頭を空っぽにしてアドリブパートで笑って、殺陣を観てテンション上がって、ダンスシーンでエモくなるだけで十分楽しい。推しがこの作品に出てくれて、毎日楽しそうに板の上に立っていて本当に良かった。千秋楽、最後はみんなで笑って成仏しよう。